プロフィール
長崎県 長崎市 出身 長崎県で中学校の美術教員を12年勤めながら、東京三世社「クレセント」でデビュー。 現在、ぶんか社で「家庭ミステリー」で保険調査員咲耶シリーズを連載中。 他に竹書房、宙出版の女性誌にも作品を掲載中。 リンク
更新内容
HPの中身を更新したときに、お知らせいたします。
カテゴリ
以前の記事
2006年 08月
2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 10月 2004年 09月 2004年 08月 フォロー中のブログ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
不幸の連鎖
2005年 02月 18日
やっと今日から、後かたづけや、雑用を始めました。
昨日は、今回の修羅場が、睡眠時間を3時間ずつ減らしほぼ貫徹な状況だったのでとっても、不規則な時間で起きたり、寝たりしておりました。 やはり3LDKは広いですし、昨年から家事がストップしている状況なので、どこからやっていけばよいのか、頭を悩ますほど、散らかっております〜、汗 仕事も早く始めないと、また編集さんにご迷惑をかけるので、3月いっぱいまで、焦って仕事をやらなければなりません。 でも、本当に片づけないと、アシスタントさんを呼んでの作業に支障をきたします…。 一人でやるのなら、どんなに散らかってても、よいのですがね。 弟とも、直接メールができ、やはり入院した理由は、インフルエンザだけではなく、他のところも悪いようで、あっちこっちの検査をしており、入院は長引きそうです。 お嫁さんや、姪っ子、甥っ子の心配をしております。 母が、まだ入院するほど、体調を崩していないのが、救いです。 弟が入院する3日前に、実はお嫁さんと話をしておりました。 お嫁さんは、その時から弟が心配といっておりました。 本当に、体調がずっと悪かったのです。 「祖母の49日がやっと終わって、お互いにこれから普通の生活に戻れると思っていたのにね」 と話をしました。 私は、チーフアシが仕事途中で、急に辞め落ち込んでおり、彼女も2月になって、実家のお父さんが、骨折をして入院をしました。 お互いに慰め合って、私は 「不幸なことがたくさんあるほど、その分幸せも大きく戻ってくるんだよ。 何か12年周期で、必ずいい年と悪い年があるそうだから」 と、話しておりました。 私も、ずいぶん昔になってしまうのですが、高校時代があまりにも楽しくありませんでした。 卒業した高校は当時進学校で有名で、試験ばかりあり、毎日予習復習を4時間やらないと、追いついていかない学校でした。 もちろん、漫画も当時イラストなど描いていたのですが、1ヶ月に数枚のイラストしか描けませんでした。 美術部にも所属し、副部長もやったのですが、2年から同じクラスの部長と折り合いが悪く、かなりきつい性格の人だったので、いじめられておりました。 多分、副部長として私の力不足もあったと思います。 そのせいか高校3年になって、受験する前に、じゅうむ炎にかかり、尿からたんぱくが出て、微熱がひかず、本当に体がだるくて、学校も1年間で1ヶ月間も休みました。 大学受験も、東京の私立の美大と九州の国立大学を受ける予定でしたが、東京まで受験に行ったら、本命の国立の時に体力がなくなるから、辞めなさいと1つにしぼりました。 それで、みごと国立をすべりました。 医大がすぐ隣にある大学で、2次試験のあと名前を呼ばれて、尿の検査をされました。 共通1次は、まあまあでしたので、実技が下手な可能性もありますが、それも落ちた原因だと思います。 その後、途方にくれる私、両親はもともと美大に進学するのは、反対でした。 お金がかかりますし、就職先が、少ないからです。 でも、私の不合格を聞いて泣いてくれた友人が 「私立の補欠次試験を受けたら?」 と言ってくれて、両親は2つ私立の短大を受けさせてくれました。 本当にありがたかったです。 後で受けた短大は、2つとも合格で、面接の時から、 「うちに来てください」 と言われました。 合格もほぼ決定になって2つの大学の試験が終わったその日の夜、母から初めて祖父が死んだことを知らされました。 私が受験中だったため、危篤の知らせも教えてくれませんでした。 小さい頃から、私をすごくかわいがってくれた祖父でした。 本当に、ここまで「これでもか〜!」というほど不幸続きでした。 でも、大学に通い始めたら、本当に変わったのです。 大学も本当に楽しく、同じ趣味の友達が、何名もでき、楽しくて仕方がありませんでした。 短大だったので、後1年院生で残る話も出ていたのですが、不可能と思われた教員採用試験に現役で合格し、卒業するときは、学長賞をいただきました。 「本当に、こんなに幸せでいいの?」 と、自分で思うほどでした。 教師になって、高校時代の美術部の部長や、同じ国立を受けて合格した友人とも会いました。 同じ美術の教員の試験を受けているのですが、国立4年を卒業した友人は、最後まで受かりませんでした。 部長は2年浪人をして、進学をあきらめ、銀行に就職して、わざわざ仲の悪かった私の実家まできて、 「貯金をしてくれないか?」 と、頼みにきました。 その時人生は変わる物だと、そして、絶対悪いことがあれば、いいことがあると自分で思うようにしてきました。 もちろん悪いことは、自分で巻いた種だということはありますので、それは反省をして変えていかなければなりません。 でも、今の私や弟夫婦に起こった身内の不幸は、回避できないものです。 こういうどうしようもない時が、誰にもあります。 あがいて見えるかもしれませんが、今やれることをやるしかないのです。 必ず不幸の連鎖は、終わります。 しばらくの辛抱が、あと何ヶ月か何年か私にもわかりません。 不幸が続いていても、そこで学ぶことも多々あります。 不幸に酔いしれず、やっていきたいと思います。
by ouba-a
| 2005-02-18 22:57
| 日常
|